いなげや物語

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いなげや物語

生業期-「まずお客様ありき」の実践

いなげやの原点は、大八車を引いたひとりの行商人にたどり着きます。
「おれは商人になる」
猿渡波蔵はそう決意して生まれ育った現在の川崎市多摩区と東京都稲城市の境付近にあった農家を出ます。
そして、当時はまだ一寒村に過ぎなかった甲武鉄道(現・中央線)立川駅前に居を構え、周辺の町や村に塩干物の引き売りを始めました。
「お客様の喜ばれるお顔が何より嬉しい」これが波蔵の口癖でした。どんな悪天候の時でも決まった日時に訪問する真摯で誠実な商いがあちこちで評判となり、お得意様もどんどん増えました。
お客様のほとんどが農家だったこともあり、そうこうするうちに「今度は砥石を持ってきて」「鎌が欲しい」等々のご注文をいただくようになり、扱い品も増え物々交換した採れたての野菜や産みたての卵を持ち帰り、引き売りの合間に自宅の戸板に並べて販売するようになりました。

すると「あの波蔵さんが店を出した」そう言ってお馴染みさんが次々に立ち寄ってくださるようになりました。
大八車に載せられる品物はわずかです。そこで波蔵は店売りに専念することを決意し、住まいを改築して「稲毛屋魚店」を開業しました。店名は鎌倉時代に波蔵の出生地一帯を統治していた豪族、稲毛三郎重成侯にあやかったものです。
1900年(明治33年)のことでした。

創業者 猿渡 波蔵
創業者 猿渡 波蔵さわたり なみぞう

店を構えてからも引き売りの時と同様「まずお客様ありき」、お客様のご要望に最優先で対応するという商いは全く変わることがありませんでした。
店は順調に発展しました。魚・塩干物や缶詰、菓子、味噌、醤油、油などの加工食品のほか、野菜等も順次取り扱うようになり、昭和の初期には、当時としてはあまり例のなかった60坪余りの売場になり、文字通り多摩地区随一の繁盛店として店頭はいつも大勢のお客様で賑わっていました。

いなげや物語-創業期~成長期

創業期~成長期-法人化、そしてセルフサービス導入

稲毛屋に大きな転機が訪れるのは、戦後の混乱が続き、まだ社会も人心も安定していなかった1948年のことです。個人商店からの脱皮をはかるべく、株式会社稲毛屋に生まれ変わったのです。

初代社長は、急逝した父親である波蔵とともに店をきりもりしていた猿渡源二郎でした。
物不足で販売したくても売る品物にも事欠いていた時代、リュックサックに現金を詰め込んで単身樺太に渡り、身欠きニシンや昆布を大量に買い付けて貨車で運んで築地でさばき、翌日には九州に向かい干物や海苔を買い付けてくる、というように年中全国の産地を駆け回って現在の産地開発、単品大量販売を実践していました。

初代社長 猿渡 源二郎
初代社長 猿渡 源二郎さわたり げんじろう(1948年就任)

「稲毛屋は良い品が安い」
店頭は評判を聞きつけたお客様で引きもきらない状態でした。
しかし、源二郎は1955年、43歳という若さで急逝してしまいます。ちょうどその頃、都心に本店をもつデパートが稲毛屋の向かいに開店しました。大黒柱を失い、さらに大型競合店の出現で売上げが激減したことから稲毛屋の先行きを不安視する声も少なくありませんでした。

二代目社長に就任した栄一は、第14期海軍飛行予備学生の一人、いわゆる特攻隊の生き残りでした。そのため、「自分は一度死んでいる。残ったこの命は、健全な社会の実現のために捧げたい」と考えました。そして、その思いを込めて創られたのが、「すこやけくの実現」と「商人道の実践」という経営理念です。
また、栄一は進取の精神に富んでいました。当時、日本に紹介されたばかりのセルフサービス方式を導入したのです。
そして、アメリカのチェーンストアを手本にして多店舗化を進めてドミナントづくりに邁進するとともに、標準化されたチェーンオペレーションを徹底して大型競合店進出という難局を乗り切ったのでした。
店舗数が二桁に達した1973年には、100店舗構想を掲げて生鮮食品の集中加工・包装・値付処理を行う生鮮センターと、グロサリーの一括納品・一括配送を行うドライセンターを開設しました。また、1976年には生鮮食品の商品鮮度を保証する表示、ODS(オープン・ディティング・システム)を日本で初めて導入し、「生鮮食品の稲毛屋」の評判は一気に高まり、チェーン展開も加速することになりました。しかし、1977年、栄一も上場目前53歳で急逝してしまいます。

二代目社長 猿渡 栄一
二代目社長 猿渡 栄一さわたり えいいち(1955年就任)

三代目社長には、二代目社長猿渡栄一を支えチェーンストアづくりを推進してきた猿渡清司が就任しました。前社長が掲げた「100店舗構想」を、物流システムや情報システムの改善を図りながら、着実に実行していきます。改善を進める支援システムを中心に、急速なチェーン網の拡大による成長性と高い収益性を達成し、その成果が評価され、1978年には東証二部への上場を果たします。

三代目社長 猿渡 清司
三代目社長 猿渡 清司さわたり せいじ(1977年就任)

1980年代に入ると、新商勢圏(一都六県)への進出、事業の多角化にも取り組んでいきます。本業のスーパーマーケット事業を側面からサポートする小売支援事業やホームセンター事業、ブックセンター事業、ドラッグストア事業、海外事業(台湾SM事業)などにも果敢に挑戦していきました。
1984年には、東証一部に昇格し、年商も1,000億円を突破。社名も漢字から親しみやすい平仮名の「いなげや」に変更、本部も東大和市から創業の地である立川市に移転し、名実ともにわが国有数のスーパーマーケットチェーンへと成長を遂げました。その後も、SSM(スーパースーパーマーケット)やSC(ショッピングセンター)事業、フード&ドラッグ業態へも取り組み、いなげやグループの骨格が築かれていきました。

いなげや物語-充実期

充実期-グループ経営時代へ

時代が高度成長から安定成長へと変化する中、稲毛屋も大きく変貌を遂げます。
社名を漢字から親しみやすい平仮名の「いなげや」に変更、本部も東大和市から発祥の地である立川市に移転しました。より専門性を高めた事業展開を図るため、小売を支援する事業としてサンフードジャパン(豆腐・麺・漬物などのデイリー食品の製造)、サビアコーポレーション(ショッピングセンターの運営管理、警備、清掃等)、トス(店舗および付属設備の設計、施行、保守管理)の育成に注力してきました。

店舗改装によりお客様のご要望の多い惣菜、弁当、寿司などの店内加工を行っているクックサンと惣菜強化型の店づくりを積極的に進めてきました。ドラッグストアをチェーン展開しているウェルパークと共同出店する利便性を高めたショッピングセンターも各地に続々と誕生しています。一方、群馬・栃木・茨城まで拡大していた出店エリアを東京・埼玉・神奈川・千葉の一都三県に集約してドミナント戦略を強化するとともに、台湾事業、ホームセンター、ブックセンターなどから撤退を進め経営資源の集中化をはかりました。

2000年に創業100年を迎え、2001年には四代目社長に遠藤正敏が就任しました。商圏内の店舗が過剰供給となるオーバーストアの時代となり、これまでの右肩上がりのやり方を続けていた体制では成り立たないことから、変革すべく構造改革に着手しました。惣菜強化に伴うオペレーション体制の改革、人財育成の強化、ina21やブルーミングブルーミーなど規模や商圏に合せた新フォーマットの開発、積極的なスクラップ&ビルドの推進によるドミナントの再構築など、積極的に改革を進めました。そしてスーパーマーケット事業・ドラッグストア事業を大きな柱に、高級スーパーの三浦屋・障がい者雇用の特例子会社のいなげやウィング・農業事業のいなげやドリームファーム・宅配事業など幅広くお客様ニーズを捉え、いなげやのグループネットワークが築き上げられました。

四代目社長 遠藤 正敏
四代目社長 遠藤 正敏えんどう まさとし(2001年就任)

2013年、五代目社長に成瀬直人が就任しました。世の中はオーバーストア化が益々進み、少子高齢化による人口の伸び悩みや共働き家族の増加といった暮らしぶりが大きく変化する中、いなげやも大きな変革が求められました。そのような中、経営理念である“すこやけくの実現”、“商人道の実践”をはじめとする理念経営を標榜し、地域のお役立ち業として貢献できる企業集団となるよう、説き続けました。2014年には惣菜子会社のクックサンを合併し一体化することで、これまでの生鮮食品を中心としたスーパーマーケットから、惣菜を柱としたスーパーマーケットへの変革を行いました。既存店改装を活発に行い、惣菜売場の拡大やくつろぎスペース(イートイン)の設置など、お買い物だけでないモノからコトへと快適環境をご提供することで、スーパーマーケットの新たな価値創造にも取り組みました。また、基幹システムの投資や、老朽化に伴う精肉プロセスセンター、青果・生鮮センターの新設など、次世代に向けて積極的な投資を重ねました。

五代目社長 成瀬 直人
五代目社長 成瀬 直人なるせ なおと(2013年就任)

2020年、六代目社長に本杉吉員が就任し、節目となる創業120年を機に、新たな時代に向けての変革が続きます。新生いなげやに皆様の一層のご理解とご支援のほどお願いいたします。

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